わらいたい:1年前のあの人たちは今/2 「飯崎のおいとこ踊り」継承者・白川ケイ子さん /福島 [裏DVD]

◇避難しても忘れぬ--白川ケイ子さん(64)
 「古里でもう一度踊りたい」
 南相馬市小高区に伝わる「飯崎(はんさき)のおいとこ踊り」を継承した裏DVD白川ケイ子さん(64)はこう夢を語った。主に男性が踊っていたが、徐々に担い手が減り、衰退しかかっていた踊りを白川さんは女性ながら、93年ごろに復活させた。「幼い頃から見ていた大好きな踊りを絶やしたくなかった」
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 しかし、原発事故で小高区は警戒区域に指定され、大正時代から受け継がれてきたどてらや刀などを持ち出せないまま、踊り手たちは全国に散った。白川さんも長女の住む東京都町田市に避難。古里を離れても踊りだけは忘れたくないと、孫の子守歌にはおいとこ踊りの歌を歌って聞かせた。「孫はすぐに泣きやんで眠るけど、家を捨ててきたことがつらくて、今度は私の目から涙がこぼれてきてね」
 そんな時に出合ったのが「どじょうすくい踊り」だった。新聞広告で偶然、「生徒募集」の文字を目にし、おもしろそうだと思って応募。9月から月2回、町田駅前で開かれる教室に通う。
 手にザルを持ち、腰にはびくをつけ、三味線の音色に合わせて中腰でリズムよく登場する。客席を見て、にっこり笑うと、思わず見ている方も笑いがこぼれる。講師の棚橋保さん(74)は「やり始めた時はいかめしい顔の人も踊っていれば、ふっと笑う瞬間がある。笑顔でお客さんと対話をしてるんです。白川さんは顔に愛嬌(あいきょう)があってぴったり」と話す。
 まだ始めたばかりの白川さんに、どじょうすくいの先輩たちが丁寧に教える。教室で最も長く続けている町田市、建築会社経営、三浦秀穂さん(68)は「踊りを披露して喜ばれると本当にうれしい。だからやめられないんだよ」とにっこり。「難しいけど、体を動かすとやっぱり楽しい。震災がなければ会えなかった人との絆ができた」。白川さんから白い歯がこぼれた。
 山や川に囲まれた自然豊かな飯崎と違い、高層ビルが建ち並ぶ東京での避難生活にも最近は慣れてきた。「飯崎にはなかったコーヒーショップに座る私を見ても誰も避難者だとは思わないよね」と言って笑う。だが、避難生活に慣れていくことが、古里を忘れることになりそうで時々怖くなるという。夕方になると飯崎の友人に電話をかけてしまう。
 9月に執り行われた実母(6月死去)の葬式で半年ぶりに、おいとこ踊りのメンバーで南相馬市原町区に避難している飯崎芸能保存会の高力時夫会長(59)と再会した。2人とも「もう一度踊りたい」という気持ちに変わりはない。「すぐは無理かもしれない。でも、いつかやりたい。飯崎で踊ると空気が違うし、知っている人の笑顔に出合えるから」
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 小高区が警戒区域に指定される前日、自宅に戻った時、友人がプレゼントしてくれたおいとこ踊りのどてらだけは持ち出した。「普段着は持って来なかったのに、おいとこ踊りだけは忘れてなかったんだね」と笑う。白川さんは、そのどてらを着て今年6月に福島市で開く予定の小中学校の同窓会で踊りを披露したいと考えている。町田で覚えたどじょうすくい踊りも一緒に。
 夏にあった一時帰宅では、一枚も写真を持ち出さなかった。その理由は「一番大切なものは持って来なかった。飯崎に帰れるって信じてるから」【長田舞子】=つづく

1月3日朝刊


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